我孫子ゴルフ倶楽部について

時代背景 我孫子の時代背景 我孫子は、昔から水戸街道と成田街道の接続地であったため、徳川時代には水戸藩の本陣、問屋場などをはじめ、成田山参詣の場として知られていたが、大正初期には東京近郊の景勝地として認められ、講道館の嘉納治五郎、朝日新聞の杉村楚人冠、日本郵船の大谷登、三菱の三谷一二、帝大の村川堅固博士、作家の志賀直哉、武者小路実篤、その他、英国人の陶芸家バーナードリーチ、法律家の田中耕太郎や白樺派の文人達が、この付近の雄大な森林や、神秘な手賀沼の風景を好んで、早くからここに別荘をかまえ、我孫子は「北の鎌倉」といわれるほど文化的な町であった。
昭和5年:手賀沼と我孫子の台地
(川瀬巴水:木版画)
1929 我孫子ゴルフ倶楽部創立の経緯 1929.(昭和4年)
初代理事長 加藤 良氏(右)
我孫子町長 染谷 正治(左)
当時我孫子の町長であった染谷正治氏が、この山林地帯の一部を住宅地として開発する計画に行き悩んでいた時、杉村楚人冠氏に相談した結果、ゴルフ場の建設をすすめられ我孫子ゴルフ倶楽部創設のきっかけとなったといわれている。
最初の計画は頓挫し、染谷氏は窮状を打開するため、嘉納治五郎氏に事情を訴えて、その援助を依頼したといわれている。嘉納治五郎氏や杉村楚人冠氏の奔走により、東京ゴルフ倶楽部の森村市左衛門のはからいで熱心な会員であり、もと浅野造船所の重役であった加藤良氏をゴルフ場設立の責任者に推薦したのである。
後年、染谷氏は我孫子ゴルフ倶楽部の会報に寄稿した「クラブ創立の思い出」の中で、「加藤氏は実に私のためには、救命主出現の想いがあった」とのべているが、我孫子ゴルフ倶楽部が無事創立をみたのは、加藤良氏の犠牲的な努力のおかげであった。
1930 1930.10.5(昭和5年) 9ホールが完成し、仮開場式が行われた 加藤良氏は、華族の社交場であったゴルフ倶楽部を庶民の為の「平等で自由にして民主的且つ、エチケットマナーを重んじるゴルフ倶楽部」を作ろうという信念を持って、森村市左衛門氏の援助と私財を投じて資本金15万円で(株)我孫子カンツリー倶楽部を設立し、ゴルフ場・水陸遊技場並びに4万坪の宅地分譲の事業計画を作成し、「ゴルフリンクス」を我孫子ゴルフ倶楽部に貸与する形で昭和5年(1930)1月にコース建設にとりかかった。コース設計を東京ゴルフ倶楽部の会員であった赤星四郎、六郎の両氏に依頼し、同年10月5日にインの9ホールが竣工して、仮開場式が行われた。
開場風景(昭和5年10月5日)
1931 我孫子ゴルフ倶楽部開場 1931.10.18(昭和6年) 18ホールが完成し、その開場式が行われた。 「我孫子ゴルフ倶楽部の誕生」 加藤良氏は、華族の社交場であったゴルフ倶楽部を庶民の為の「平等で自由にして民主的且つ、エチケットマナーを重んじるゴルフ倶楽部」を作ろうという信念を持って、森村市左衛門氏の援助と私財を投じて資本金15万円で(株)我孫子カンツリー倶楽部を設立し、ゴルフ場・水陸遊技場並びに4万坪の宅地分譲の事業計画を作成し、「ゴルフリンクス」を我孫子ゴルフ倶楽部に貸与する形で昭和5年(1930)1月にコース建設にとりかかった。コース設計を東京ゴルフ倶楽部の会員であった赤星四郎、六郎の両氏に依頼し、同年10月5日にインの9ホールが竣工して、仮開場式が行われた。ところが、翌昭和6年の1月8日に初代会長の加藤良氏が病気のため急逝したため、後任に田中実氏が会長に就任して、同年の10月18日に18ホールが完成し、その開場式が行われた。この日、朝香宮が始球式をされたが、招待客や会員のほかに、地元近郷の人たちが多数集って、我孫子町空前の盛観を呈したといわれている。
赤星 四郎氏(左)
赤星 六郎氏(右)
完成された我孫子コースは、手賀沼と利根川に挟まれた台地と谷地を巧みに利用し、幽邃な森と理想的な地形(Contour)によって、戦略性の高い関東屈指の名コースとなり、昭和8年(1933)8月に、関東プロゴルフ選手権が開催されたのを始めとして多数のナショナル競技が開催されている。また、会員数も昭和8年には普通会員と株主会員合わせて600名、これに週間会員600名を加えて、1,200名の多数に達した。 ページトップへ戻る
1933 1933. (昭和8年) 第3回関東プロゴルフ選手権開催
1936 1936. (昭和11年) 第10回東西アマチュア対抗戦開催
第29回日本アマチュア選手権開催
第29回アマチュア選手権
優勝者:佐藤 儀一氏
1948 戦禍を乗り越えた我孫子ゴルフ倶楽部 1948. (昭和23年) 第二次世界大戦とともに我孫子コースは極端な荒廃におちいり、13番ショート・ホール一帯は防空陣地と化し、倶楽部閉鎖の危機に直面したが、倶楽部創設にたずさわった染谷町長がこれを憂いて、海軍経理学校と一時的賃貸契約を結び、終戦まで同校の農業経営にまかせた。この処置によって、倶楽部はかろうじて廃絶を免れた。
同様の運命によって永久に消え去った他のいくつかのゴルフ・コースと比べ誠に多幸であったといわなければならない。
終戦後我孫子コースは、相模カンツリー倶楽部と共に駐留軍の接収を免れて、関東におけるただ二つの日本人専用のコースとして残されたが、旧会員の四散が多かったため、その再建には非常な苦心と努力がはらわれて、昭和23年(1948)9月にようやく18ホールが開場された。
しかし、会員の復活が思うに任せなかったため、一時倶楽部の運営面から外人ゴルファーを歓迎して、アソシエート・メンバー制度を作った。かって、チャック、森本、大竹などの優秀な2世プレーヤーのほか外人メンバーが多かったのはそのためである。
それと同時に、資金調達のため、当時理事長の小倉康臣氏が、戦後最初に法人会員制度を着想して多大な成果を挙げた。
1949 1949. (昭和24年) 第17回日本プロフェッショナル選手権開催(優勝:林由郎)
1950 1950. (昭和25年) 第15回日本オープン選手権開催(優勝:林由郎)
第18回日本プロフェッショナル選手権開催(優勝:林由郎)
1952 1952. (昭和27年) その後、コースは井上誠一氏によって、さらに改造修理される一方、昭和27年(1952)に旧倶楽部ハウスに代わって、新倶楽部ハウスが起工され、翌年の6月に落成した。また昭和29年(1954)には倶楽部組織も社団法人に改組されるにおよんで、我孫子ゴルフ倶楽部は名実ともに復興して、日本ゴルフ界における代表的ゴルフ倶楽部の一つとなりました。
1953 1953. (昭和28年) 第21回日本プロフェッショナル選手権開催
1954 1954. (昭和29年) 昭和29年(1954)には倶楽部組織も社団法人に改組されるにおよんで、我孫子ゴルフ倶楽部は名実ともに復興して、日本ゴルフ界における代表的ゴルフ倶楽部の一つとなりました。
1955 1955. (昭和30年) 日本女子アマチュア選手権開催
1967 1967. (昭和42年) 第52回日本アマチュア選手権開催

この頃、我孫子ゴルフ倶楽部名物の深いバンカーや小さなグリーンで鍛えた選手達がゴルフ界を席巻。いつしか小技が上手なプレースタイルは、「我孫子流」と呼ばれるようになりました。
1980 1980. (昭和55年) 創立50周年事業ならびに新倶楽部ハウス(3代目)披露の祝賀が開催された。
1981 1981. (昭和56年) 第23回日本女子アマチュア選手権開催
1983 1983. (昭和58年) 第5回日本シニアゴルフ選手権開催
1992 1992. (平成4年) 第1回日本アマチュアマッチプレー選手権開催
2001 2001. (平成13年) ネイバーズ・トロフィー・チーム選手権開催
2002 2002. (平成14年) 第12回日本シニアオープンゴルフ選手権開催
2005 2005. (平成17年) 平成17年(2005)には創立75周年式典が東京會舘で開催された。
2009 2009. (平成21年) 第42回日本女子オープンゴルフ選手権開催
2012 2012. (平成24年) 10ヶ月のクローズ期間を設け、ワングリーンにコース改修を行う。

設計家ブライアン・シルバ氏と設計を具現化するシェイパー、カイ・ゴルビー氏に依頼し2012. 11月より仮オープン。
2013 2013.5.27/28(平成25年) グランドオープニングセレモニー
2014 2014. (平成26年)  ゴルフマガジン社2013ベストインターナショナルリノベーション受賞

3月4日 日本ゴルフ協会で2017年日本女子オープンを我孫子GC開催決定
2017 2017.9.28~10.1 (平成29年)  第50回 日本女子オープンゴルフ選手権 記念大会開催 畑岡奈紗選手2連覇達成
2018 2018 (平成30年)  9番ホール、12番ホール改修 ページトップへ戻る